初恋を殺して。 2
夢を見たのは予知夢とかそういう類のものではない。
理由ははっきりしていた。
昨日、受け取り待ちの本を整理したからだ。
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仕事に行くための身支度はそんなに時間の掛かるものではない。
シャワーを浴びて軽く寝汗を落とし、着心地のよい綿の半袖シャツを着て同じ綿のカーゴパンツを穿き、裸足でサンダルを履けば出来上がりだ。
どうせ日の当たらない風の通る部屋で作業ばかりしているのだから、不審者に見られない程度の清潔感さえあれば、メイはそれでいいと考えている。
財布と古書店の鍵と小さなタオルを腰に引っ掛ける小さな鞄に入れると、家の鍵を取ってメイは外へ出た。薄曇りの、晴れ。矛盾しているような表現だが、まぁ、その二つの合いの子のような空模様だ。
メイは、日の当たりすぎない湿度の低い今日のような天気が好きだった。
古書店につくと、隣の中国茶専門店の親父が話し掛けてきた。
「何だメイ、今日休みじゃないのか?」
「オハヨウゴザイマス。今日は休みですよ?」
「休みなら、なんで」
「師匠の弟子ですから、本の傍に居ないと寂しいのかもしれません」
すると親父は眉をひそめる。
「イーサンは嬉しそうに、朝早く釣竿もって出掛けて行ったぞ?」
「あぁ……いや、すみません、師匠の今のブームは釣りでした」
思い出して、苦笑するメイ。イーサンは最近、休店日は郊外の釣り場へ出掛けているらしい。食べれるのかどうか怪しい色と臭いの魚を捕ってきて、手料理を振る舞われた時には、何かの罰ゲームかと思ったほどだ。おいしかったけど。
「メイも新しい趣味を見つけたらどうだ?」
「あはは、まだまだ半人前ですから、その暇は修業に充てないと」
「真面目だねぇ。ま、がんばりな」
長い立ち話をそこで切り上げると、メイは漸く古書店の中に入った。
元の持ち主のせいで色褪せた二束三文の古本達を通り抜け、カウンターの棚から受付票を引き出す。ぺらぺらとめくり、引き取り待ちの一覧をチェックした。もうすぐ一年になる日付の紙が一番奥にある。
『依頼者…クロロ。依頼内容…本の修復。前金受領済み。連絡先未記入』
取りに来ないのあんただけだよ、ミスター。
ふぅ、と息を吐けば、パタパタと紙が震える。メイは受付票を戻して、奥の作業場に入ることにした。
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師匠から教わっている修復の技術は、まだまだ初歩といっても良い。
修行を初めて十年、と、ちょっと。普通の古書なら、一人で総て出来るようになった。
だがこの世には念という厄介なものがある。あんなものが使われた本を修復できるようになるには、まだまだ時間が掛かるだろう。
メイは目利きのために凝をものにしたところだ。ゆくゆくは師匠のように、本に命を吹き返させるような仕事をしたい。まだまだ先は長い。
「お腹すいた……」
気付くと昼の少し前だった。そうだ、空腹なのは当たり前だ、朝食がオレンジジュースだけだった。作業場を簡単に片付けて、メイは行きつけの喫茶店へ向かうことにした。
朝、隣の親父に言ったのは嘘だ。
本に触れていたいのは寂しいからじゃない。
ちらりと書架を見て、そんなことが頭を過ぎった。
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喫茶店のランチで腹を満たしたメイは、店先で虫干しという名の読書をするために少し厚いハードカバーの本を奥から持ち出した。昔にも一度読んだシリーズものの三巻だ。この初版本は貴重で、一般客向けの客寄せパンダになってもらっている。顔を知って間もない頃、一冊だけ無かった八巻をクロロが売りに来たのにとても驚いた。
メイの記憶は芋蔓式に他の記憶も引きずり出した。
メイが最後にクロロに会ったのは一年ともう少し前の、最後の本の一つ前の本の修復を引き渡す時のことだ。
その時にはもう、彼がどのように生活の糧を、否、わざわざイーサンに修理を依頼する様な本を手に入れているのか、知っていた。
幻影旅団の団長。それが彼、クロロ=ルシルフルの肩書だ。
それを本人から告白された時に、メイは「あぁ、うん、なるほど」とだけ返して、クロロに小突かれた。それは彼の拍子抜けと安心がないまぜになったふわふわした感触だったのを覚えている。
本の修復のために念を習得するような師弟は(クロロがメイに会ってネジがトぶよりも)随分前に頭のネジが何本もトンでいて、本を愛する人間に良いも悪いも無い、本を前に皆平等だ、などと考えていたのだった。
(そしてそれを言質を取られて大変なことに)
(いや、今はそっちは思い出したくない)
随分前から、イーサンが治した本をメイが渡す、店舗の奥にある作業場の手前にある応接室に陣取り、クロロは受け取ったその場で読み耽りはじめる、イーサンは、面倒臭い仕事が終わった、と隣の家にお茶を飲みに押しかける、というのが常になっていた。
メイは、奥から発せられる神経質な気配から解放され、のんびりと在庫の虫干しを始める。虫干しという名の、クロロと揃っての読書だった。
何もかも懐かしい風景だ。メイは思い出して、今度は、少しだけ泣いた。ポトポトと落ちる涙を本に落とさなかったのは、最後の意地か。
(クロロ、は、死んだ。ニュースではそうなっている)
ヨークシンでの出来事だ。ニュースを聞いて、三日は寝込んだ。
数日して修復依頼の本が届いた。本当は生きてたんじゃないか! と喜んだのも束の間。荷物を出した日付は、ニュースの一週間も前だった。
(本を、もう一年も取りに来ない……やっぱり死んだんだろうか)
堂々巡りの思考に入る。
生きていると信じている。だが、生きていれば有るはずの便りがない。でも、あんな強い男が死ぬなんてことは、有り得ない、信じられない。生きていると、信じている……だが……。
五分程めそめそとして、メイは考えることを諦めて立ち上がった。
昨日、気まぐれに書架の整理なんてするんじゃなかった。もうすぐ一年になる。やっと思い出さなくなってきたのに。たった一人の顧客に入れ込む必要なんてない。本は私を必要としている。私は本を、必要としているんだ。
自分に暗示をかけて、メイはズピズピと鼻をかんで、本を読むのを諦めて帰ることにした。
もうそろそろ、イーサンが帰ってきてもおかしくない時間だからだ。
泣いたのがばれるような顔で、師匠には会いたくなかった。
続く
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ナニがあったのかは、未だ欝モードのメイは語ってくれないようです。