愛の無知 4
メイは携帯電話の着信音で目が覚めた。
無意識に音の鳴る方へ手を伸ばして、違和感で覚醒した。
「やば! 寝てた! 何時?! 電話!!」
ソファーの後ろに落ちていたジャケットを慌てて拾って、ケータイを探す。
「わ、師匠からだ。
もしもし!」
『なんだ、寝てたのか?』
「えっ、えぇ、まぁ……というか、なんなんですか、師匠、頻繁に来てるんでしょう」
『なんだ、もうバレたのか? つまらんのー。まぁ、知り合ってからは長いのは認めよう』
「もー。仕事任せてもらえるようだからもう良いですけど。あと依頼の内容とかもっとちゃんと教えておいてください」
寝起きのだるさも相まってイーサンの声を聞いたら怒っていたことがどうでもよくなって、胸中で罵っていたのをそれだけで済ませた。
電話の向こうからは心の籠っていない「すまんなー」という言葉が聞こえた。メイは深く息を吐く。
「それで、わざわざ電話をくれたっていうのは、何かありましたか?」
用が無ければ(歳の近い唯一の友人である)クロロにすらメールも電話もしないメイは、電話をかけてきた事に対して警戒をしている。
『いや? 何もないぞ。しいていえば粗相無く挨拶できたかとか、そういうことは心配しておったがな』
「師匠よりマシだって言われましたからご安心を。ついでに少し相談してもいいですかね」
『なんだ』
「雑誌の修復を頼まれたんですが、大量の血でかなりのページがくっついてるんですよ。乾いてるから、私としては濡らすしか無いんですけど」
『雑誌は紙が弱いからなぁ。普通の染み抜きのように、上からゆっくり叩いたほうがよさそうだ。あー、面倒だ、なんでお前変化系じゃないんだ』
「そんなこといわれましても」
『もうひとり、変化系の弟子でもとるかなー』
かわいい子が良いなー、なんてデレデレした声を出しているイーサン。
「うわ、ショタコン!」
『ふん、メイを身受けした時に散々言われたからもう平気じゃ! まぁ、お前がこうやって相談の電話して来なくなるまで無理か。わはは』
「あー、はい、申し訳ありません」
『何事も経験だ。メンテナンスのほうもぬかり無くやれよ』
「はい」
『また俺が暇になったら電話するわ~』
「あ、ちょっと! 切られた……。もう、師匠は……」
そうやって自分を心配してくれているというのが分かるあたり、自分も大人になったなぁ、なんて感慨に耽る。
……耽ってる場合じゃなかった。
ケータイの時計はそろそろ日が落ちる時間を表示している。
「時差が少ないとはいえ、ちょっと感覚が違うね……必要な道具だけでも出しておかないと。その前に作業室……あぁ、キャリーバッグは寝室に……」
ジャケットを肩に引っ掛けてごろごろとバッグを引く。右の奥だったな、と扉を開けると、扉の向こうも広い部屋だった。部屋の奥がガラス張りで、その向こうに外が見えるように風呂が設置してあるようだ。
「この広さ……うう、財力とはこういうものか……」
数メートル歩いてベッド傍へ着くと、窮屈なスラックスから解放されるために着替えることにした。綿生地のカーゴパンツにゆったりしたカットソー。スーツのさらさらした感触も嫌いではないが、メイは綿の方が何倍も好きだった。
着替えを終えて、キャリーバッグの底から少し大きい取っ手のついた小箱を取り出した。女性が見ればほぼ全員が「化粧箱」と答えるだろう。実際、箱自体は化粧箱として売られていたものだ。
中身は違う。筆や刷毛、インク、何かしらの薬剤といった、本の保守・修繕に必要な小物が入っている道具箱だ。
「うん、よし、こぼれてない」
確認を終えると、道具箱を持ち、自由に使えと案内された部屋へ向かう。
開けた先は、ベッドルームを一回り小さくしたような部屋だった。バスルームもある。ベッドは無い……代わりに広い机と丁度良さそうなスツールが三つ置いてあった。
つまりベッドルームからベッドを搬出して机と椅子を置いたのだ。なるほど。
「元々ツインベッドルームのスイートルームってことですか……いや、でも、こんなところに客なんて来るの?」
道程を考えると客が来るようには見えないのだが。
そんなことを考えていても仕方ないか。思考をぶつ切りにして、メイは作業の準備をはじめた。
箱を置くと、メイはスツールに浅く腰掛けて、両手に意識を集中させた。
オーラをよく練り、求めている紙を具現化させる。オーラがじんわりと実態化していく様を見て、もっとスピードが欲しい、といつも感じる。特殊な紙を具現化させるのに時間がかかるのだ。
両手の間から具現化していくのは、幅30cm、厚さ2mmの多孔子質の……つまり水分をよく吸収する厚手の紙。でろんでろんと流しっぱなしの感熱用紙のFAXの様に波打ちながら具現化していく。両端が繊維屑が出ないようになっている。メイもきちんと修業をしているのだ。
机の向こうからでろでろ落ちてぐだぐだとある程度溜まったところで、紙を作り出すのをやめた。吸水紙は沢山あって困るものではない。
道具箱の中から小さな棒を取り出す。これは伸縮性の棒で、仕舞うときは短く、使うときは好みの長さに調節できるという(市販の)便利グッズである。紙端を持ち、ぐるぐると巻き取る。キッチンペーパーのような塊が出来上がる。
「ふぅ」
一息吐いて、さて水を、と思ったが、バケツは持ってきていないことを思い出した。
「仕方ない、メイドさんを呼ぼう」
部屋の入口にある呼び鈴のボタンを押す。ほどなくして、メイに宛がわれた個室の入口の方の……何と言えばただしいのか、取り敢えず内玄関と呼ぼう、その扉がノックされた。
「失礼いたします。メイ様、お呼びでしょうか」
部屋に案内したメイドとは違うメイドであった。
「あ、えーっと。バケツが欲しいんですけど、お借りできますか? あまり大きくない……5Lくらいのがいいんですけど」
どれだけ雇っているのだろう? 大きい屋敷に広大な敷地だ、かなりの人数だろうけれども。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
「あ、まって」
一礼してすぐに下がろうとしたメイドを慌てて呼び止める。
「二つ、必要なんです。同じものじゃなくても良いので」
「はい。承りました。材質の御希望は如何でしょうか」
「材質? あ、あー、なるほど。ありません」
まさかそこまで聞かれるとは思わず、少し考えてしまった。
「よろしくおねがいします」
「かしこまりました。
失礼いたします」
メイドはもう一度一礼して扉を閉めて行った。
「すごいなー、ホントに押したらすぐ来るんだ。美人さんだったなぁ」
ほくほくしながらソファーまで戻って、元雑誌を手に取る。紙の質を確認。水分は慎重に加えないとぼろぼろになりそうだ。紙を複製して、少し練習した方がいいかな。
メイの思い付きで初めた「紙を具現化する」念能力は、こういう形で仕事に役立てていた。複製は見本があるときにしか作れないが、特性ある紙は数種類ほど自在に作れるようになった。紙との相性は最高らしい。
ぼんやり雑誌を触りながら待っていると、そんなに経たない内にまた扉がノックされた。
「失礼いたします。バケツをお持ちしました」
メイドはオーソドックスな青いポリバケツを持って部屋へ入ってきた。メイが座っているソファーまですっと寄ると、バケツをクロウに渡す。ポリバケツは気兼ね無く使えていいな、なんて考えながら、クロウは礼を言った。
「ありがとうございます、助かります」
立ち上がって、受け取る。かなり丁寧に使用されているのがわかる。
「何でも御申し付け下さって構いません」
「あー、じゃぁ、もう一つ。私の夕飯はどうしたら……」
「ディナーは旦那様と御一緒されると伺っております」
ディナーって……、とうなだれるメイ。メイドは不思議そうな目で見ている。
「……スーツしか持って無いんですけど」
「御着替えなさるほどの恰好ではござませんよ」
それってスーツがよっぽどアレだったってことですかね。感情の揺らぎが感じられないメイドの様子に、メイはそう受け取って苦笑いをした。
「じゃぁ、まぁ、汚れたら着替えます」
「私共にお預けいただけるのでしたら、洗濯物は脱衣所の洗濯籠にお入れ下さい。お急ぎでしたら呼んでいただければ、すぐにでもお洗い致します」
「えぇー! そ、そこまでしてもらわなくとも!」
あくまで仕事をしに来たのであって、そんなことまでお世話になるわけには……というのがメイの考えであるが、その言葉を聞いてメイドは頭を振る。
「私共の仕事にございます。ご遠慮なされませんよう、よろしくお願いいたします」
「そうですか……じゃぁ、なにかあったら、お願いします」
「はい。では、失礼いたします。
ディナーの準備が整いましたら、お迎えに上がります」
メイドは綺麗な礼をして、部屋を出ていった。
「ディナー……はぁ……」
おそらく昼食よりもゾルディック家の人々が集まるであろう様を想像して、憂鬱になる。
「そんなことより仕事だよね」
嫌なことは後回しだ、と作業室へ向かった。
続く
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